「成長とは何か」
たまに思うがそれを具体的に表現するのは難しい
ではどうやって成長していくのか
少なくとも成功しっぱなしで大人になる人はいないであろう
多少なりとも何処かで必ず失敗している
「失敗は成功の母である」という格言もあるが
これはあくまで一局面においてだけの言葉のように思える
同じ事を次に成功させればいい
そういう風には取れないだろうか?
では人生における「成功」と「失敗」は何か
これも定義があやふやで個人差が歴然としている
確かに一個の局面を突き詰めて人生を華やかにした人物も多い
歴史上の偉人は大体この類だ(と、思う)
だが自分が思うにそれだけではどうしても足りない
では自分にとって成長とは何か
「打たれ強くなる事」
少なくとも自分的にはそう思う
上記で示した考え方では、一個の事例は達成した時点で無意味なものになってしまう
それは使い捨ての剃刀と同じようなものではないか?
多分多くの人は失敗した事を切り捨てて生活しているのだろう
でも恐らくその「失敗した事」というのは
多極的に考えると決して無駄ではないと思う
刃こぼれして使い物にならないように見える刀
しかしながら火を再び通し鍛えなおせば以前より切れ味が鋭くなる
真の名刀とはそういうものだという
人生にも同じ事が言えるのではないだろうか?
例えば君は何かに失敗し
立ち上がれないくらいのダメ−ジを受けたとしよう
多くの人は投げ出し、少数派は再びその「何か」に挑むだろう
だがその「失敗」を別の何かに生かそうとする人はいるだろうか?
「なんだよ!これ結構使えんじゃんw」っていう感覚は
こういう事に基づいているのではないだろうか?
かの北野武氏はこう言った
「おちこぼれで何が悪いんだろう?勉強ダメでも他の事でトップに立てるかもしれないでしょ?」
さすが世界のキタノ!いい事言うわ(笑)
そういう意味では協調性は無くてもいいと思う
「隣の子が成績いいから私も塾に行こう」
「隣の子がオシャレだから私もファッションや流行に敏感でいよう」みたいな
それは本人で望んだ事ではないはず
かくいう俺も落ちこぼれだ
成績優秀ではないし運動が出来るわけでもない
そういう意味では失敗しっぱなしの人生かもしれない
でも今まで失敗した事を切り捨てた事は無かったと思う
確かにカッコいい他人に羨望した事もあれば
クラスメイトに羨望して成績優秀になりたくなった事もある
でも何と言うか今はちょっと違う気がする
「それがどうした?なんてつまらない生き方だ」
今ではそう思う
お世辞にも体が強いとは言えない
学歴だって無いに等しい
ルックスだってその辺のニ−チャンに劣っているだろう
でもそれがどうした?
負け犬の遠吠えと言われるかも知れんが少なくとも俺は後悔していない
若い人によく見られる傾向でもあるが
勝利とか成功とか、敗北とか失敗とか
一つの局面で考えすぎてはいないだろうか?
「ここで負けても違う事が出来るかも」
「そしてそこでは上手くいくかも」
「それでも失敗したとしても最初の事は上手く出来るようになってるかも」
そういう発想には至らないのだろうか?
俺はそう思う
君には悲劇かも知れないが