内に他者性を求める事は
同時に己のアイデンティティを否定する事にも似て

己が内面と格闘する行為と誤解と


ふと思う事がある
よく「これは俺の意志じゃない!」とかぬかす輩がいるが
或いは美学として内面の他者を捏造する
えせ精神病理のヤツがかなりの数いるが
そんなに「今を生きている一個人たる己」を否定して何が楽しいのか
多重人格者をモチ−フにした本をそれなりに読んでみたが
内面の他者が発生する最大の原因は
「現実逃避」と「深層的な欲求」による
ひどく身勝手な「己の都合」である場合が多いと俺は感じる

例えば
A子が「いじめられているのが自分じゃなければいいのに」と思ったとする
その「受け皿」的な存在として「いじめられっこB子」が発生する
暴論であるとは思うが基本的にはこういう事なのだろう?

本来人間はそういった感情なり欲求を
全て内包しうる精神的キャパシティを持っているはずである
少なくとも俺はそう思う
破壊的な面と慈愛的な面
俗っぽい言い方をすればそういう表現になるのであろうが

では何故に誰しもが内面的な他者を望むのか
現状の自分に満足していないから?
それも確かにあるだろう
しかし俺が思うに誰もが責任を他人に押し付けたがっているのではないか?
だから「内面の他者」という存在まで捏造して
自分に降りかかる責任をコンマ数%でも軽減したいという事ではないか?
このテキストを書いている俺も含めての話ではあるが

「楽しい事だけは自分が得る」
恐らく内面的な他者を持ってる(と、思ってる)連中は皆そう考えているんじゃないか?
お前ら冷静になって考えろ
それがどれだけ傲慢で嫌な考え方であるかという事を
楽しい事だけであるはずが無い
何故俺がこういう考えを持つに至ったか
人生都合のいい事だけではないという考え方
そのバックボ−ンになり得るかは不明なのだが
高校の頃読んでいたコミックにこういう台詞があった

「「たら」「れば」を入れていけば人生いい事づくめだ、そんなのありえやしねぇよ」
「君は笑いっぱなしの人生を望むか?」
※あだち充著作「H2」より

「辛い事があるから楽しいと感じる、辛い事が無ければいいと望んでも、それが無ければ楽しさもない
 そんな灰色の世界なんか僕はいらない」
※遠藤浩輝著作「EDEN」あとがきより

その当時俺は酷いいじめを毎日受けていた記憶がある
正直当時の事は思い出したくはないし、今でも嫌でもフラッシュバックする事がある
だけどそういうもんだろう?
そりゃ人によって確かに程度はある
マイナス要因が少ないヤツも結構いるだろう
それは否定しない
しかし多かれ少なかれ同様に「嫌な事」だってあるはずだ
でなければ「喜怒哀楽」という言葉を定義出来ない

「それでもお前は普段から愚痴をこね回してるじゃないか」
君らはそう俺に言うだろう
俺ならどうするかって?
俺ならそういう現状に対して宣戦布告する
それがどういう形になるにせよだ
そこで敗北して倒れるなら俺はそれまでの人間だったのだろう
一過性の勝利を掴んでも次の「相手」が現れるだろう
長年現状に甘んじてきた俺だったけど
少なくとも今はそういった「戦闘続行中」の人生を痛快に思える

もう一度言う
内面的な他者に責任を押し付け、現状を回避しようとした時点で
お前達は戦闘に入る以前の敗北者だ
俺は飽きるまで暴れてやる
それがどういう世界であろうとも