見た目は可愛いが連中も人間

ゴスロリを考える

破壊神の天罰(注・管理者の携帯サイト時代のサイト名)を運営してたとき
破滅系詩人サイトという特殊性のせいか
周囲にはゴシックを好む人たちが結構集まってきていた
※もっとも本人にゴシックのつもりはまるで無かったが
自称(確認出来ていないのであくまで「自称」とする)多重人格者
精神的苦痛をリストカット等で紛らわせているPTSD保有者
※このPTSDも大部分は「自称」であると思われる
ようするに自分を「悲劇のお姫様(或いは王子様)」だと思いたくてやまない
そういう連中が「破壊神の天罰」には実によく集まったものである

最初のうちこそ悩みとかを聞いていたのだけれど
正直なとこ俺は連中をなめていた
本気で己がPTSDだと思い込むあまり
連中は真性のパラノイアになってしまっていたのだ
こういう奴らの相手をするというのは実に骨が折れる
事実連中の狂気に近い感情が俺にも伝染し
一時期俺もパラノイアのような症状を出した事さえあったのだ

話を本題に戻そう

以前某コミュニティサイトに潜入して
そこでの若い連中の動向を探った事もあったのだが
ネットの世界に巣食うパラノイア系ゴスロリの連中は
状況の特殊性も重なって、かのコミュニティサイトと同様のクロ−ズドネットと化していた感がある
要するに自分達とほんの少しでも相容れない存在は
彼女(彼)らにとっては敵なのである
「状況を敵か味方かのデジタルな目線でしか見れないのか」と言われるかもしれないが
正直な俺の連中に対するこれが評価である

ポップなものかゴシックなものかの違いだけで
やっている事は大して変わりがないのに気付くのに時間がかかりすぎた
もっともそれに気付いたからといって俺に何が出来るわけでもないが

ちょっと俺の基本スタンスについて触れておこう

正直なところ俺はゴシックだろうがポップだろうがどうでもいい
少なくともプライベ−トにおいて
そんなくだらない概念に縛られているのが大嫌いなのである
事実前に所属していたパンクバンドもそれが理由でやめている
その時々に思ったことを正直に言葉として連ねていけばいいのだ
これが詩人、テキストサイトクリエイタ−(笑)としての「SSL」の基本理念である

そういう俺である
脳内設定の概念に縛られた連中とつるめるわけがない
だが連中は好き勝手に妄想して俺のキャラクタ−を縛ろうとする
それがどうしても耐えられない

以前大阪の殺人未遂事件でゴスロリが社会現象になった事がある
被疑者のホ−ムペ−ジも見てみたのだが
案の定当時俺とつるんでいたゴスロリ達と一切変わりはなかった
リストカットの写真・耽美に彩色された詩・嫌な事しか書かれていない日記
中にはファッションでゴシックをやっている奴もいるだろう
それでも大部分の痛い連中が一部の善意すら食い尽くしてしまう状況である
それに何の意味があるのか

俺が思うに精神的に「戦う」という発想が見事に欠如しているのだろう
楽な方楽な方に精神を埋没させてしまい
「どうせ世の中嫌な事しかない」という決定的な悪循環に陥っているのだろう
ましてやそれを「これは何か違う」と指摘する存在もいない
肯定しか認めない悲しい個人主義の結果なのだろうが
現状が嫌ならそれを変えてしまえばいい
牢獄だと思うなら柵ごとぶっ壊してしまえばいい
その為の武器としての主義主張ではないのだろうか?
以前にも言ったがインタ−ネットとはそういう事にも使えるツ−ルなのである

俺は問いたい
その手に武器を持って何故にそれを使わないのか
己の存在意義を守り抜く為の傷ですら恐れているようでは
いつまで経っても連中は社会と相容れない
それをしてくれる第三者をただ待っているだけでは意味が無いのだと
今ではそう思える

だからパラノイア系ゴスロリな諸君よ
君らの中には確実に俺に敵意を向ける奴もいるだろう
だが言わせてくれ
戦闘続行中の人生もそれほど悪くはない
少なくとも俺はそう思う